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獅子窟  華山寺​
開山  愚堂東寔国師

愚堂東寔について

天正五年(一五七七)美濃国伊自良村大森(現岐阜県山県市)に生まれる。十五歳の時、同村東光寺の瑞雲宗呈について得度。

十九歳より諸国を行脚。二九歳の時、播州三友寺の南景宗岳和尚の下で大悟。

三一歳の時、妙心寺、聖澤本庵の庸山景庸の膝下に参じ、三四歳にして庸山景庸の法を嗣ぎ愚堂の道号を師より賜る。庸山景庸に初参の際に手厳しい指導に対して行き詰まってしまい竹藪に入り蚊の群れの中夜を坐り抜いた話は有名である。

三八歳の時、美濃瑞巌寺に初住。慈渓寺、正伝寺、大仙寺など復興し豊後養徳寺、伊勢中山寺、江戸正燈寺、山科華山寺等を開創した。

万治二年(一六五九)、妙心寺開山関山慧玄禅師三百年遠諱大法会で導師をつとめる。門下に一絲文守、至道無難など近世禅宗史にその名を残す傑僧を数多く輩出し、ことに、至道無難の孫弟子に白隠が出て、愚堂の名を不朽なものとした。白隠慧鶴に連なる愚堂下の法継は純禅とも称せられ人法では現存する唯一の法継である。

寛文元年(一六六一)、入寂の翌年、朝廷から大円宝鑑の国師号を賜る。

​愚堂国師と華山寺の関係

 

華山寺はもともと天台宗であったが、元和年間尾張徳川家初代義直の外護で荒廃していたのを再興し、住持雷峰和尚の頼みで萬治元年(八二歳)御水尾上皇の内勅により愚堂を開山として臨済宗に転宗している。

また一説ではもとは長保元年(九九九)に藤原道長の姉栓子によって建立された慈徳寺というお寺があり、鎌倉時代初期まで存在していた。しかし藤原家の衰退と共に寺運も衰えていき、万治元年妙心寺の名僧愚堂が慈徳寺の旧跡を偲び華山寺を建立したともされる。確実な事実は愚堂国師は万治元年(一六五八)、八二歳の時に華山寺へ退隠し、寛文元年(一六六一)十月、八五歳で華山寺にて示寂。

翌年朝廷から大円宝鑑国師と論(おくりな)された。

華山寺にある開山堂の下には愚堂国師の全身のお骨が眠っており、謂わば愚堂国師のお墓である。

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